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「写真家とは何者なのか」大竹昭子 (その2)

 「写真家とは何者なのか」大竹昭子 (その2)

(ニコンサロンブックスー27「現代写真の系譜」2000年12月刊)

専門ジャンルを決めて撮影する写真家、興味の対象をつぎつぎと変えていく写真家、テーマごとに撮って行く写真家、テーマをもたない写真家・・・いろいろなタイプの写真家がいる。

(中略)

では テーマを設定せずに撮り続けているのはどのような写真家だろうか。代表として、自らの写真を「極私的写真家」と呼んでいる森山大道がいるだろう。彼は デビュー当時から一貫してカメラと肉体を密着させるスナップショットをつづけてきた。大坂・新宿・家の周辺とエリアだけを決めてそこを回遊魚のようにぐるぐる巡りながら撮影する。富山治夫が被写体の事実性を写しとって時代の諸相を浮き彫りにしてきたとすれば、森山大道は視覚を通じて被写体の「現実社会」とひとつになる身体的実験をつづけていると言えるかもしれない。彼はコンパクトカメラしか使わない。単純な機器を携えて街を徘徊するところがまるで原始人の狩人のようだ。
写真には夢の中のように同じモチーフが繰り返し現れ、写真がはじまりも終わりもない行為であることを強く認識させられる。

森山以前にもテーマを設定せずに撮った写真家はいた。深瀬昌久がそうである。彼はデビューしたころ、もうすこし体系的に撮ったらどうだと批評家に批判され、こんなふうに答えている。自分は単純な動機からある被写体を何本か撮り、そこにたまたま自分の撮りたいものが写っていたらそれを撮るというプロセスを何十回と繰る返すうちに、撮りたいものが見えてくる、と。

現代では だれでもが彼のようなやり方でテーマを熟成させている。自分の関心やこだわりを対象化することの重要さにみんな気付いている。そうした 写真の考え方は70年代から広まってきた。写真でなにかを訴えるのではなく、被写体と自分との関係の記録を写真に求めだしたのだ。

そのことそをもっとも過激におこなったのは荒木経帷だろう。彼はヌードも建物も、花も食べ物も、愛妻も猫も、カラーもモノクロと一括りにしてみせるアナーキーな編集を徹底させてきた。いま若い写真家が当然のようにおこなっているこのやり方は、荒木の影響抜きには考えられないだろう。

荒木経帷は撮影中にさまざまなタイプのカメラをこまめに使い分ける。現場につねに何種類ものカメラを携帯し、それらを直感的につかいこなしながら自分自身をかりたて、被写体との関係性を作りだしてゆくのだ。その理由を、彼はわたしとのインタビューの中でこう説明した。

写真とはのめりこみやすくて狂気との距離が近い。こんなに自分のピッタリの道具であると同時にカメラに従っていたらやられぞという感じをもった。今でもカメラに犯させることはするけれど、一つにカメラや表現の仕方に固執せず、撮影の場にもわざといろいろなカメラを三、四台置いておくのだ、と。

荒木が「写真の狂気性」を意識したのは、先輩格の森山大道や中平卓磨や深瀬昌久などが写真に「のめり込む」のを見たからだった。「狂気性」をもろに引き受けては自分には持続できないと直感したところから、彼独特の写真術がスタートしたのである。一方、荒木に危険信号を送っていた森山はその後スランプを乗り切り、いまやエネルギッシュに撮影を続けている。荒木と体質的なちがいかもしれないし、狂気をうまくかわす方法をみつけたのかもしれないが、テーマに頼らず自分の中から持続の力を生み出しているところに、並々ならぬ強靭さをうかがわせている。

被写体と自分とのあいだをどう往復するかは写真家によって異なるだろう。被写体との事実性にストレートに没入する人もいれば、自己を引きずって逡巡を繰り返す人もいる。シャッターを押す手と、その持ち主である自己との関係には無限の組み合わせが存在するのだ。

鬼海弘雄は(この本の、眠り太郎脚注)コメントの中で、写真は音楽や文学や絵画に比べれば技術的なレッスンが少なくてすむが、ひとつの作品群に自分を取り込んで撮ろうとなると長い歳月を求めてくるようだと語っている。これは被写体と自分のあいだを詰めていくむずかしさを語っているのだろう。被写体の事実性に強く惹かれながら、そこに完全に自己を渡しきれないところに作者の葛藤があるのだ。

横須賀の町やアパートを撮り、現在は人の皮膚に残された傷跡を撮っている石内都も、自己と被写体の振幅を生きている一人であり、須田一政も自分の生理や体質にこだわり、そこのひっかかるものを粘り強く追いつづけている。また、奈良原一高、川田喜久治、細江英公、内藤正敏、山崎博、田原桂一などは、被写体がもとっているさまざまな意味をはぎとり純化させていくところにそれぞれのこだわりを見せている。また 戦後を通じて時代と自分のかかわりを探求してきた東松照明は、終のすみかと決めた長崎の浜辺にミニマルな世界を作りながら、テーマの意味を彼独特の執着力で探り続けているようにも見える。

写真家は作者のテーマを完全には表現しえないし、結論を担うことも出来ない。テーマとは写真家の内部からでてくるが、写真そのものは写真家の外=現実社会からやってくるものだ。

写真家にとってテーマとは、写真を持続していくためのエンジンのようなものかもしれない。その意味ではすべての写真家がテーマを持っていると言えるだろう。テーマになるのは「現実社会」の具体物だけではなく、これまで見てきたように、時間や記憶への溯行、光の観察、視覚運動への究明なども写真のテーマになりえる。肝心なのはその問答が頭の中ではなく現実との接触のなかで行われるということだ。

写真は現実世界、カメラ、自分という三つの組み合わせからできている。自分の関心と体質を考慮しながら三点の調合をしていくのが写真の作業だ。もしかしたら写真家に求められる本当の「技術」とは、その能力かもしれない。(了)

| エッセイ | 05:57 | comments:3 | trackbacks:1 | TOP↑

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