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2006.11.01 Wed
親鸞 その2
☆「歎異抄 第3章 悪人正機(しょうき)の章」から
NHK 「こころの時代 宗教・時代」 のテキストブック
山崎龍明 著 「歎異抄を語る」 上巻
以下は上記よりの引用ですが。92頁から93頁にかけての引用ですネ。
一般論になってしまいまいますが、宗教とは、あくまでも自己(私)自信のありようと人生に対する学びが出発点だと思います。人生とはなにかといった哲学的思弁ではなく、この人生をいかに生きることが、深く豊かな生き方といえるのか、という問いと 求道が 宗教の基本的な問題ではないでしょうか。ただひたすら善い人間をめざすのが宗教ではありません。宗教は(一般社会の:眠り太郎のつけくわえ)道徳すら越えたものとしてあり、ときに、社会にとって、人間にとって不道徳な側面を発揮することもありうるのです。イエスの受難の生涯、釈尊(ブッタのこと:眠り太郎補足)が「若者をさらっていく」(出家させてしまう)と非難されたことなどが、そのことを物語っているといえないでしょうか。
宗教が世俗の価値観を否定し、あるいは、相対化して、人間が根拠とするに足るものはなにかと求めるのであれば、それは当然なことなのです。宗教と道徳との違いを明確にしないと、本来の宗教というものが、ますます、見えなくなります。
『歎異抄』第3条の「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」という言葉に対する誤解に一貫するのは、(世間一般の)「道徳心」にあると思います。(とらわれてしまってみているから)この言葉の誤解が「悪を助長するもの」「不道徳きわまる教え」という視点からのものがほとんどあることを考えるとき、日本の仏教観の道徳性を深く感じます。
(眠り太郎による脚注:
仏教が、さも道徳をとくもの、倫理を説くもの、そういうものとして仏教がつかわれてきた。それが、日本人のもつ仏教観なのであるが、はたして、それが仏教なのか、ブッタが後生につたえたかったことなのだろうかな、と)
(歎異抄の)第3条を「倫理以上の信仰」(暁鳥敏『歎異抄講和』講談社学術文庫)といった人がいました。
ここに「しかるを世のひつのつねにいはく」(歎異抄の第3条に言葉)というのは、世間一般常識を生きる人、多くの人々ということです。世間の人は、善人が往生することができるだから、まして(や)悪人が往生するのは当然であるというと、それは、間違いだ、あやまりだといいます。
この(世間からの)指摘はもっともだとは思いますが、しかし、阿弥陀仏の本願の世界とは全く違うということです。「本願他力の意趣にそむけり」と明確な断定をしています。世間でいっていることは、阿弥陀仏の本願の根本趣意にそむいている、つまり、阿弥陀仏がその昔、誓いをたてた大慈大悲のこころに全く違背しているといいます。
「悪人でも往生するのだから、善人はもちろんのこと」 こんなことは阿弥陀仏の世界からは考えることすらできないと、強い表現で(「歎異抄 第3条の中で)示していると(思われます) (以下略ですが)
| エッセイ
| 07:30
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| エロ | 2008/03/01 05:18 | URL | ≫ EDIT