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親鸞 君を想う その1 

先週は、教育映画の仕事をしていた。
これもおわってみれば、生産性(=給料、あるいはペイなのだが)そういう意味では私は暇なんである。
フリーーランスはいってみれば、下請けにしかすぎない、これが現実というものであろう。

不安はつきまとう。今後どう、つみかさねていくのか、また、中越のことを、どう続けていくのか、自分でかんがながら、いろいろなひとに出会いながら、続くとしても、現時点で不安はあるだろ。将来の不安といっても いいかもしれないが。

☆NHK こころの時代、「歎異抄(たんにしょう)をかたる」
山崎龍明 著 (上下巻)

を読みすすめる。

☆ 親鸞と歎異抄について

 う〜む、読む進めていて、これはえらいこっちゃなあ、と思う。
親鸞といえば、浄土真宗の開祖みたいなひとなのであるが(親鸞だけでかたれなく、親鸞の先輩に当たる、法然や、そのほか一遍もかたらなければならないのだが)

親鸞は自分を終生、愚禿(ぐとく)親鸞とよび、弟子、門徒をとらなかった
(歎異抄 第6章 誡弟子諍の章(かいでしじょうのしょう)、全18条の条わけは、妙法院了祥氏による)
親鸞のいうところは、ふかく、阿弥陀如来に帰依することであり、なむあみだぶつ、と唱えることである。

この本の著書、なんで700年も前の、親鸞から多くをまなびたいとおもっているのかといえば、すべてきれいごとの善悪ではなく、また、困ったときの仏(神)にすがるのではなく、親鸞自身が、愚衆と自分をみ、自分の考えたり おこなっているという親鸞自身の自我的ありようをとらえ、おろかさ、そしてつきまとう 病の苦しみ、死がおとづれることの苦しみ(生と死の問題)を、ゆっくりゆっくり考えていった人だという。

親鸞も強いが、著者山崎氏もつよい。
歎異抄といえば、よくいわれるものに、悪人すらも菩薩(覚醒者)になることができる(第3章)というのは、ひとびとがおこなう善行ではなく、それが世間でいわれる善悪なんてものではなく、阿弥陀を地におとしめることなんて人の計らいでは無理であり(唯一神としての阿弥陀菩薩)、その悪こそが悪であり、世間にいう善悪なぞ、悪のうちにはいらない、のであると、著者はいうのである。

よくいわれることで、歎異抄は、悪人ですら、菩薩になれるのなら、善行を積む人の善行を否定している、と他宗の批判が通俗的にあるが、善とかあくとか、菩薩の前では、ほとんど小さいことなのであろう。
また、善行をつむというが、その偽善性、善行をつむということで、天国(末世)の利益(りやく)をもらうという さもしさ、自分はなにをやっても、すぐれておらず愚鈍であり、それを放棄するのではなく、そこに、生きる力をみいだそうとしたという。

また、よく言われる他力本願なのであるが.....

(この項、書きかけですので、また)

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